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価値

※相当おぞましいことを言ってますが、全部自分自身に向けて言っていることなので、真に受けないでください。

読まない方が幸せです。

 

 
「誰かの代わりに」

国語の時間に習った論説文。

その授業中に高橋和巳の名前が出てきて、頭の中に「わが解体」がよぎった。嬉しかったのはそこだけ。

で、これ書き下ろしですって。読んで危うく泣きそうになるものだった。「おまえのかわりはいくらでもいる」という事実がはっきりと目の前に突き付けられた気がして。

それだけなら良かったんだけど、「そんなにきもちわるいおまえのかわりはいないし、おまえにはこのよにいてほしくない」ということが思い浮かんだ。

 

たしかに。

私、取り柄がない。

 

きれいな教室内の一部になれない。存在自体が気持ち悪い粗大ゴミである。そして粗大ゴミは頭にまで粗大ゴミが詰まってるので、勉強はできない。体育では毎時間のように息切れを起こす。ランニングでは1周遅れ。たまに生理痛を理由にして休む。弱すぎる。クズ。音楽、歌では大声とそれなりの高音が出せるだけ。音程は外れている。リズムもまるきり違う。リコーダーのアンサンブルテストは自分だけがミスをする。そこまでくると慰められる価値もない。

そこまでだめならどこに価値が?と思って、趣味について考えてみた。創作と絵と文。

わたしは、作る世界観も継ぎ接ぎだし、未確定の集いだし、誰も満足させられないし、その時点でストーリーはアウト。

絵はさらにアウト。わたしが価値を感じられるものは一枚もない。

じゃあ文章は。

文章書く人間なら、すこしぐらい相手に素直に気持ちを伝えられるはずなんだと思うんですが。

それすら不可能でした。

 

ああまわりくどい。今まで書いてきたものは全部全部全部まわりくどくて、気持悪くて長く見てられない。

わたしが量産するもの全部が全部気持ち悪く見える。

私の小説もどきより、Twitterで見る他の人のリプライの方がもっと価値があって、素直で真っ直ぐな気がする。

隣の芝生は青いじゃすまない。本当に自分の書く長文は誰から見てもゴミ扱いされるものじゃないのか、と思う。

 

この通り、人間性として正当化できるものがどこにもない。

お前の代わりはいくらでもいると言われるより、お前以上の価値のものはいくらでもあるって言われる方が似合っている。

どうしてわたしだけこうなったんだろうなぁ〜、いつか変われるかなぁ〜、と楽観的に考えることもあるが、3学期最後に提出する可能性がある国語のノートに遺書もどきでもタイムカプセルとして書きたいな、と考えた時点で変われるわけもない。

 

映画監督である黒澤明の兄は、「人間は30を過ぎるとどんどん汚くなっていく」といった旨のことを発言している。実際、彼は30歳で自殺した。

私も、自我が芽生えて、脳が発達するにつれて自分の中の汚さがよく見えるようになっていき、結局15歳になった現在としては「自分にもう綺麗なところはどこにもない」という結論を出している。

私としての「綺麗なところ」は、自分の「存在価値」と同じ意義である。

あなたのこの要素が好きだよ、って言われたら、それはもう有頂天になるけど、その要素を失ったらどうしようと思って、そのあと試行錯誤を繰り返してその要素を突き詰めていこうとする。でも気が付いたら試行錯誤の末にその良い要素が別のガラクタに変わって、せっかく私を肯定してくれていた言葉もそれ以上飛んでこなくなる。それで良いところを失っていく。

肯定だけで生きていこうとする人間というだけで価値がないのだが、肯定される部分がなくなると価値がない粗大ゴミになる。

じゃあおまえも黒澤明の兄のように自死でも考えたらどうだという話だけど、自分に価値がないだけであって自分が死ぬと悲しい人たちは確かにいるらしい。世知辛い

このように価値がないゴミが生きてるのは私の自意識がとにかく嫌なんだ。でも死ぬことはしない。私のいつかの死因は精神疾患に関わるのだろうという予測はできているが。

 

私からすれば、何しても結局は失敗するゴミって私ぐらいだから、そういう価値無しのものを世界は積極的に虐殺してほしい。

 

いろいろと悲しくなる。植物みたいになりたかった。なるのならなにも考えられないバカが一番良い。自意識など死んだ植物でよかった。中途半端に考えて悲観する生物になんて生まれたくなかったよ。

 

書くのもめんどうくさくなってきた。

私がなかなか誰にも理解されないのは私自身が私のことを理解しようとしないせいかもしれないけど、私は私が一番嫌いだからこれ以上理解したら私が嫌悪感で私を殺してしまうだろう。

 

価値がない生き方をするより、価値を捨てるために死んだほうがよかった。

私に限った話で。